2008年03月16日
うえむらのこと 1
わたしは昭和17年に東京で生まれましたが3才の時、父親の故郷「熊本」に母と2人で引っ越すことになりました。父親は仕事の都合で東京に残りました。母親は見ず知らずの土地に行く事をよく決心できたと思います。戦後の混乱時でしかも食糧難の事情から相殺できたのだと思います。男性のような気性を持ってもいましたからでしょうか。引揚者の人と満員列車で母親の背中におぶさり出発したことが思い出されます。熊本に着いてまもなく母親の背中で大きい「キノコ雲」を見ました。これが昭和20年8月9日長崎に米軍が落とした原子爆弾でした。幼い私でも鮮明におぼえています。与えてもらった住まいはふるぼけた納屋を改造した和室2間と土間に置かれた炊事場に水瓶(井戸がなかったのでもらい水)それに狭い土地でした。風呂も近所へ借りに行きました。母親は狭い敷地に豚を飼っていました。餌は近所から出る残飯、豆腐やさんから出るオカラをリヤカーをひっぱって回集して育てました。生まれたての子豚はピンク色で可愛く、布団で共に寝たこともあります。夜になると近所の風呂をお借りするため暗い夜道を提灯片手に行くのですが夜空は月といっぱいの星が輝き流れ星が綺麗だった事が思い出されます。母親は大柄の方で気性も男性的でした。日銭稼ぎに近所の農家で作った畳表を遠く鹿児島方面に出かけました。よくご近所に私は預けられたこともありました。しかしやさしく私の勉強も見てくれました。しつけは厳しく悪ガキの私はピリピリしたものです。素手でホホを殴られると迫力がありました。豚が成長するとやがて肉屋さんがトラックで引き取りに来るのですがその時は可愛そうでした。田舎は農村地帯だったため遊び場所は田んぼや川、それに神社とお寺でした。母親もいっしょになって川に出かけていっしょに泳ぎを教えてくれたり、小鮒つりをしたものです。その頃の川は馬の洗い場でもあり、洗濯場でもあり、野菜の洗い場でもあり、子供にとっては釣りや水泳をする場所でもありました。 つづく
Posted by おかげさま at 12:50│Comments(0)