2008年04月19日
「孝経」に通じた「歎異抄の第五章」
先の「孝経」を勉強をするうち、細川巌和尚の「歎異抄の講話にたどりついた。話はこうである。親鸞聖人は父母の孝養の為とて、一遍とて申したることいまだ候らわず。書き出しでその理由を3つ述べてある。その一つ「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なりという問題を考える。これが孝、家庭というものを考えていく根本である。それは愛情の超越ということだろう。
愛縁とは因縁による愛情であり恩愛ともいう血の繋がり、あるいは長く一緒に暮らす間に生まれてくる愛情であり、人間的愛情である。愛縁を超越することは人間的な愛情を超えるということである。恩愛とは実際には私の子供、私の親、私の何々という私的愛情を言う。一切の有情とは人間に限らず生きものすべてを含むものが生まれかわりである。泥田にあって泥田に染まない蓮華がある因縁あって親子となったのであり、そこに他のものと違った深いつながりがある。そのなかにいるのであるが、それを超えたものがある。恩愛に沈んだ切りであるのを「殻の中に入っている」という。殻は何かというと「私心」という。仏教では「我執」という。<私というものにとらわれているの意>私心というものは常に排他性をもっている。親が親として立つとは、親は責任者として、独立者としてあるいは家族を背負う者として。子は子として恩を知り、親の徳に報いようとする心を持つ。そういうところに本当の家庭の成立があるのであろう。その根本は「私」に対する「心の呼びかけを聞いて殻を破って出るということである。ここに本当の家庭の成就がある」とあった。「人」の字が表しているように人間だけが持つ繋がりや支えがなければ一人では生きてはいけないと共々肝に銘じていかなければいけない。
愛縁とは因縁による愛情であり恩愛ともいう血の繋がり、あるいは長く一緒に暮らす間に生まれてくる愛情であり、人間的愛情である。愛縁を超越することは人間的な愛情を超えるということである。恩愛とは実際には私の子供、私の親、私の何々という私的愛情を言う。一切の有情とは人間に限らず生きものすべてを含むものが生まれかわりである。泥田にあって泥田に染まない蓮華がある因縁あって親子となったのであり、そこに他のものと違った深いつながりがある。そのなかにいるのであるが、それを超えたものがある。恩愛に沈んだ切りであるのを「殻の中に入っている」という。殻は何かというと「私心」という。仏教では「我執」という。<私というものにとらわれているの意>私心というものは常に排他性をもっている。親が親として立つとは、親は責任者として、独立者としてあるいは家族を背負う者として。子は子として恩を知り、親の徳に報いようとする心を持つ。そういうところに本当の家庭の成立があるのであろう。その根本は「私」に対する「心の呼びかけを聞いて殻を破って出るということである。ここに本当の家庭の成就がある」とあった。「人」の字が表しているように人間だけが持つ繋がりや支えがなければ一人では生きてはいけないと共々肝に銘じていかなければいけない。
Posted by おかげさま at 14:03│Comments(0)