2008年09月28日
病に倒れるのも天命
四苦八苦の「四苦」の一つに病気の苦しみがある。私が育った田舎にはお医者さんが2軒だけだったが、当時は歩いていくか、自転車かもしくは病人をリヤカーに乗せて診察に行く手段しか無かった。もちろん現在のようにタクシーなんか1台も無かった。お医者さんはもと軍医で戦場に行きいろんな経験を積み上げた人だからこの一軒がまるごと総合病院だった。各家庭には越中富山から汽車を乗り継ぎ、箱に詰められた常備薬を売りに来ていた。おおかたこのクスリで治していた。又はお医者さんが自転車に乗って往診に回っていた。もちろん水道なんていった設備は無く、井戸水が生活水。村に流れている川の水は野菜を洗ったり、洗濯をしたり、馬を洗ったり、夏には子供の水泳場だった。いま考えるとなんとなく非衛生だったが、大病に掛る人は少なかった。現在はあちらこちらに診療所、医院、病院が建ち並ぶ。薬屋さんもファミリーレストランのように規模も大きくそして、スーパーマーケット化して便利だ。人々は少しでも体調が悪くなると、気軽に薬屋さんめぐりが出来るし、腋近くの貸しビルにはいろんな開業医さんがひしめいているのが原因だと思うが、競争が激しい割にはみんな残っている。それだけ老人の人口が増え続けているのだろう。しかし、人生には限度があり、「生者必滅」いずれは死が訪れる事を誰一人避けては通れない。
むかし、孔子の弟子に伯牛という人がいて、その人は誰もが認める「人徳」の持ち主だったそうだが、不治の病に倒れたらしい
。その時伯牛はなぜ自分ほどの者が不治の病に倒れなければいけないのか諦めきれずに悶もんと悩んでいたそうだ。
そこへ孔子が面会に訪れ、「もうおしまいだね」「運命なんだね」「こんないい人が病で倒れるなんてわからないものだ」と云ったと言う。病気に限った事ではないが何事も天命、運命と考えて割り切る必要もありはしまいか。
むかし、孔子の弟子に伯牛という人がいて、その人は誰もが認める「人徳」の持ち主だったそうだが、不治の病に倒れたらしい
。その時伯牛はなぜ自分ほどの者が不治の病に倒れなければいけないのか諦めきれずに悶もんと悩んでいたそうだ。
そこへ孔子が面会に訪れ、「もうおしまいだね」「運命なんだね」「こんないい人が病で倒れるなんてわからないものだ」と云ったと言う。病気に限った事ではないが何事も天命、運命と考えて割り切る必要もありはしまいか。
Posted by おかげさま at 09:00│Comments(0)