2008年01月26日
儲け方いろいろ 3
川西が知れわたるようになったきっかけはプレハブメーカーの大和ハウスが能勢電鉄の畦野で「阪急北ネオポリス」・三菱系の進和不動産が「清和台」・西武の「多田グリーンハイツ」・その後東急の「湯山台と萩原台」などの大型団地が次々と出来て来る。こうなると県や市の対応も変わる。神奈川県から助役として迎え入れ開発業者に負担金や教育施設等の施設の寄付が義務付けられ整備されたいわゆる「川西方式」で団地が生まれた。ダムの完成で井戸給水は水道に、汲み取りや浄化槽トイレは水洗に、プロパンガスは都市ガスに切り替わっていった。それと共に中小の業者も質が向上した。井戸水が枯れて幾度か水を運んだ事が懐かしい。当時、専務だった小松さんが清和台の抽選販売に当り居住して初代自治会長を経てやがて市会議員となった。同時に退社され、社長の片腕が無くなったように私は思った。会社組織を当時西宮の「小堀住研」や「トウヨド建設」を目標にしていたのでいろいろ悩んでいたがのちに吸収されたり、潰れている事から現在子供兄弟ががひきついでいるので良かったと思う。
ミスミコーポレーション 上村亮尭
ミスミコーポレーション 上村亮尭

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17:18
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2008年01月26日
儲けもいろいろ 2
私が不動産業を始めるきっかけをつくってくれたのは第一建設の米花社長さん、大恩人である。川西市で会社を立ち上げる前は阪急三国駅前の商店街の中で営業をしていらしゃたとの事。染め抜きの真赤なハッピが制服だと聞いている。
入社当時の会社は貸しガレージを改造した僅か20坪足らずの店舗に私を含めて10名が働いていた。そのころの私はもともと企画の仕事を任されていた。当時川西の建売住宅は15坪~20坪の土地付3DKの住宅が売価も200万から500万が主流で
あった。設備はアパート用の流し台だけ、施設は井戸水が飲料水、トイレは汲み取りか浄化槽、ガスはプロパンガス。それでも良く売れたなあ。毎月の販売目標が30戸年間360戸を達成していた。建てたら売れる時代で建築が間に合わず他社から買取って補うことも多々あった。なにしろ川西では第一建設のブランド力は相当なものだった。ミスミコーポレーション 上村亮尭
入社当時の会社は貸しガレージを改造した僅か20坪足らずの店舗に私を含めて10名が働いていた。そのころの私はもともと企画の仕事を任されていた。当時川西の建売住宅は15坪~20坪の土地付3DKの住宅が売価も200万から500万が主流で
あった。設備はアパート用の流し台だけ、施設は井戸水が飲料水、トイレは汲み取りか浄化槽、ガスはプロパンガス。それでも良く売れたなあ。毎月の販売目標が30戸年間360戸を達成していた。建てたら売れる時代で建築が間に合わず他社から買取って補うことも多々あった。なにしろ川西では第一建設のブランド力は相当なものだった。ミスミコーポレーション 上村亮尭

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