2008年03月19日

うえむらのこと 3

私が不動産屋になったきっかけは運命づけられていました。熊本を離れ父親が勤務していた凸版印刷大阪工場にコネで入社し、花形の製販課に配属して頂きました。
原画に忠実さが要求される部所で印刷にかかる前に何回もテストされ、OKが出て始めて印刷される訳でやりがいが有りましたがたびたび有名なデザイナーや写真家が校正に訪れ憧れていました。
グラフィックデザイナーになるため退社して勉強しました。卒業後あちらこちらの工房を渡り歩き6年後Uアドとして独立。元勤務していた凸版印刷からも注文があったのですが金銭的に苦労していました。
ある日のこと新聞で初任給10万円で川西の建設会社で企画室長の募集広告が目に留まりダメもとで早速応募してみることにしました。
その頃の10万円は相当値打ちがあり、近所にあった銀行の支店長クラスでも7万円ぐらいでした。面接が済んで3日後に採用の通知があり、小躍りしました。その頃のボーナスも平均100万の会社で破格の扱いでした。
田中内閣の「列島改造」などをへて川西も大手の開発業者が参入し、発展を見越して仲介業者が乱立し、だんだんとセアが狭くなりそれから「バブル」があり、
バブルがはじけ現在に至る訳です。わたしのブログ「儲けいろいろ」をお読みになればその頃が伺うことが出来ます。
  


Posted by おかげさま at 14:00Comments(0)
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